2011年10月27日
対包丁男
市 (2011年10月27日 08:28)
│Comments(2)
│訓練
![](http://img01.militaryblog.jp/usr/ichiro/TOMO6097.jpg)
圭太様 はい、あの事件では副校長と、2年生担任のうちの1名が犯人を取り押さえています。1年生担任が犯行を止めるべく体当たりをしていますが、刺されて撃退されています。この時、市郎さんの対包丁訓練の一部でも分かっていれば、犠牲者を増やさずにすんだかも知れません。また、結果的に混乱を助長してしまった先生方も、日頃から「こういう事が起こりえるんだ」と思っていれば、もう少し違った動きをしていたと思います。 先に身内(教育界)を防犯意識が低いと書きましたが、教員は皆「子どもたちを守ろう」という気概そのものは高いんです。全国津々浦々多数学校があり、私の知る学校はその極々一部ではありますが、この点は共通して間違いなく守っていると信じています。 しかし、防犯と防災の区別がついているか、と問われるとこれはやはり「防犯意識は低い」といわざるを得ないと思っています。 以下、私の考えです。 防災については、児童を逃がすと同時に、より安全な方向に誘導するという意味において教員も逃げます。先頭に立ち、道しるべと成りながら児童を導きます。校舎が炎上、ないしは崩壊の危険がある場合を考え、一人も置き去りにせず退校する必要上、廊下に整然と整列し、倒壊物落下の危険が無い運動場に集合させます。 防犯については、児童を逃がす時間を稼ぐために、教員は犯人を追います。児童を整列させて、一緒に逃げるといった事は考えないことです。点呼確認は犯人を取り押さえてからで充分です。一カ所に児童が整列させ、そこに犯人がやってきて、教員が立ち向かわずに「逃げる」ことを考えたら、襲撃者にとって格好の標的が集まっていることになってしまいます。 防災においては児童と逃げる、防犯においては児童を逃がし、自分は向かっていく。この違いを全教員が理解しているだろうか、と疑問に思えるわけです。 1学年3学級ある学校ならば、3×6学年分、そこに教務、校務、教頭、校長、加配と20を超える大人がいるわけで、それら全員が市郎さんのマインドセットを持ち、犯人に向かえば取り押さえる事ができると考えられます。 通常、最も不審者が入りやすい1階に、階段の昇降が不便、給食の運搬が大変などの理由で低学年を置きがちです。そして、低学年担任は年配の女性教員が多いです。体力、体格では男性に劣ります。 彼女らでも、市郎さんの薩摩訓練での包丁対処法を知っていればきれいに取り押さえることはできないにしても(本番は訓練の数割しか力を出せないでしょうから)、数十秒は稼げると思えます。「ストライクをはずす」事が分かっていれば、手足、顔面を切られても即死にはならず、闘い続け、児童が逃げ、同僚が駆けつけるまでさらに時間が稼げます。よしんばそこで力つきても、次々駆けつける教員が同じ事をしていったら、児童を逃がす時間をさらに稼げます。取り押さえるチャンスもできます。 刃物は、何かに刺さっている間は他の者を攻撃できません。万一自分の身体にナイフを刺し込まれたら、その時間分だけ児童にナイフがむく事を阻止できている、と考え、可能なら差し込まれたナイフをつかんで放さないことです。そこまでを職務と考えることです。 九州某県にて講師の頃、そんな事を防犯がテーマの職員会議で説明してみたこともありました。まず、相手にされませんでしたが・・・。「映画の見過ぎじゃない?」「一人よがりで強がってるようにみえるけど、何か武術オタクのサークルにでも入ってるの?」「変な宗教にはまってないよね?」返ってくるのはだいたいそういった反応でした。教科指導がこの仕事の王道ですから、防犯を強調しすぎる意見は余分で奇異なものと受け取られがちです。 刃物男の襲撃なんていう妄想に時間を割くことはない。行事予定に「防犯訓練」の項目があるからこなしている。実際は、そういうノリであります。 市郎さんの訓練を、自衛隊、米軍アレルギーの強い教育現場にそのまま持ってくると恐らく「殺人訓練か?」と悪意の曲解や誤解を受ける事が予想されます。しかし、私の願望としては、児童の生命を預かる以上、必要な、必須の訓練であり、全面的に採用するべきだと思ってやまないのであります。どんな偏見を持っていても、鹿児島アリーナでの訓練を経験すれば、市郎さんの考えが如何に理にかなっているか分かるはずなのですが・・・。 *余談ですが、いくつかの県で講師(県に固着されないフリーランスの教員)をしてきましたが、さすが鹿児島は違うな~、と思わされた先生がいました。仮にT先生とします。当時新規採用の若い男性でした。2年生女子が痴漢にあった翌日から、登下校を徒歩にし、校区を甲子園バットを鞄に差し込んで巡回するように歩き回っていました。端からみればこの先生の方が不審者です。何事だと注意を受けましたが、主旨を説明された校長は「バットはソフトボールの自主練習用だな(ということにしておくぞ)。きばれよ」と黙認。仮に犯人を見つけ、捕らえるためとしても、暴行を加えてしまったら、増して反撃を受けバットで殴ってしまったら免職と逮捕は免れない。それでも「自分の預かる子がやられたのを許すわけにはいかない。これ以上好き勝手させるわけにはいかない」気骨の方が上回っていました。バットは実際の凶器というより、これで叩きのめしてやるという意思表示です。やがて、若手同僚が加わり、被害児童の保護者を中心として賛同した保護者がさらに加わり、ちょっとした自警団ができあがりました。交番のお巡りさんも黙認どころか立哨をかってでてくださった。犯人は捕まりませんでしたが、T先生の在任中痴漢は発生しませんでした。薩摩とは、そういう土地であり、なればこそ市郎さんの思想や訓練の意図も受け入れられるのではないかと思うのですが。 半可知識の調子にのった駄文、長文、失礼いたしました。
by dnag
dnagさん、よくぞ書いてくださいました
_(._.)_
帰国する日、大勢で夕食をとっていたら
学校の先生が飛びこんできました。
現役で5年生を受け持っているとか・・・
彼はOTSにシュアフャイヤの予備を買いに
きて旧知の市が来ているのを聞いて走って
きたのだそうです。
このごろは怪しい男がやたらに学校に入って
くるのでパトロールを欠かせないのだと
言ってました。
たいていはシュアで照らせば出ていくよう
ですが、かかってきたらピカッのガツンを
やるんだと言ってました。
江戸訓練のことは知らず、受講できなかった
ことを残念がっていました。
彼の場合、
これだけの気持ちがあるだけで、すでに強い
存在ではないかと。。
で、たとえば、、
看護師さんたちに荒っぽい闘いの方法を
教えても院内暴力に対して使うわけにはいき
ませんよね、、
だって患者の身体を傷つけるわけには
いきませんから、、、
ホントはぶん殴って追い返していいと
個人的には想いますがね〜(*^^)v
なので、皆で力を合わせて相手を傷つけるこ
となく押さえ込むという訓練をするしかない
のです。
それでも「蜜蜂コンセプト」という方法で
対処すれば暴力の拡大や二次災害を防ぐことが
可能なわけです。
薩摩訓練では ある母親が参加していました、、
彼女はイッショケンメに学んでいました。
「どうですか? 訓練は役立ちましたか?」
とワシは聞きました。
すると、
「はい、とても、、とくによかったところは
マインドセットの教えでした、、大切な子供
たちが襲われたときに、自分が前に出て防ぐ、
それ以外に方法はないのだと判ったら決心が
つき勇気が湧きました。怖がって退いてしまう
と最悪の事態になり、前に出て落ち着いて対処
すれば相手の包丁をブロックできる可能性が
あると判りました・・・」
という答えでした。
鹿児島のよかオナゴの口から
「マインドセット」という言葉が出ただけでも
感動でしたよ(^^)
たぶん、不動心というよりもマインドセットの
方が心に沁みやすいのですね〜(^_^)
小鳥ですら自分の子供を守るためには
傷ついたふりをして相手につかまるスレスレの
ところでヒタスラな演技をします。
これもマインドセットのなせるワザでしょう。
対包丁の訓練は格闘技というよりも
「避難訓練」だと想っていただきたいです。
包丁が水平から、あるいは垂直に、
あるいはナナメから飛んでくるので
それらを払いのけ、できたら相手を押し倒して
時間を稼ぎ 避難するという防人災訓練では
ないでしょうかね。。。
そこに危機があり
本当に大切な人が危なかったら
自分の命を捧げましょう
自分を殺さないかぎりは大切な人に
指一本触れさせない
そういう死に方って素晴らしいでは
ありませんか!!
そして そう決めた君は相手にとって
怖ろしい存在となります
なにが怖いって死を怖れない人間くらい
シマツにおえない敵はありませんからね
ただし 殺人男の包丁をはじき飛ばすための
技を覚えましょう
訓練しておけば それが必要なときに
本能の力が技を出してくれます
なあに、、技といっても
バレーボールで相手のサーブを受けるくらい
の運動能力があればいいんですよ・・・
もちろんやればやるほど練度は向上します
楽しく学びましょうよ。。。市
2011年10月27日
ブツヨク
市 (2011年10月27日 01:03)
│Comments(11)
│語りのプラザ
初めまして。onoと申します。 ブログの内容とは全く関係なく恐縮ですが、 昔からイチローさんにお尋ねしてみたいと思っていたことが ひとつあります。 それは、イチローさんのコレクション(ガンやナイフ、etc)に ついてです。 うまい表現が思いつきませんでしたので、あえて はっきりした言葉で表現させていただきますと、 「自分がこの世を去った後、自分の所有物の行方が気になるか否か」 と言うことです。 私自身は昔、本をコレクションしていた時期が ありましたが、コレクションに向かない性格なのか、 それともただ単に意志が弱いのか、 数年で止めてしまい、それまで集めた物は売却なり、 廃棄なりして処分し、今では極力、物を持たないように 生活しています。 ですから、私には長年コレクションを維持できている人の 考えというものが分かりません。 イチローさんの「物」にたいする考え方。 それを、ぜひ教えていただきたく存じます。 それでは失礼致します。
市より、
とても良い質問ですね〜
良い答えは出せませんが、これは人間同士とし
て語り合うべき事柄ではないかと想います。
自分がこの世を去ったとき自分の所有物がどう
なるのかに関してはワシとしてはまったく
気になりません。
それらのモノは 家族が使い、他人に譲られ、
どこかで誰かが使うでしょうからノチノチの
ことなんてどうでもよいと想っています。
ただ、どうしてこんなにモノを集めるのか、
そんな自分がよく解りません。
あきらかにこれは物欲の現れだと想います。
物欲はよいことではないと感じています。
でもタバコや酒で飲んでしまうというよりは
カタチに残るモノっていいな、と想います。
たとえば、ワシの目の前にはアンティックの
キャメラがドドドと並んでいます。
これらは動きますが、仕事で使えるモノでは
ありません。
ただ、
それらのひとつひとつに子供のころの憧れや
想い出や、喜び悲しみも詰まっており、
眺めていると一瞬にして昔の自分の心に
戻ることができます。
このスタートキャメラでドキドキしながら
初めての撮影をしただとか、高校になって
写真部に入り 月賦でネオカを買って恋した
彼女の前を通りながらノーファインダーで
撮影し、それを上げたら驚いてくれて仲良く
なっただとか・・・
新聞広告に載ったプリモJRが欲しくて
欲しくて身をよじってしまった辛い想い出
だとか・・・
そんな自分の過去を甘酸っぱく想い出し、
もっと頑張ろうと自分を励ますんです。
他人からは物欲に見えても、心の中にある
昔のアルバムとなっているんですね〜
本もいろいろと持っています。
でもこれらはいつかまた読みたいので
ジャマとは感じません。
時計がこれまた多いんですが、カワユイ
やつらなので、やがて子供達が昔のディザイン
の素晴らしさを知り、アートの心を養うこと
でしょう。
ナイフがこれまたドッサリあるのですが、
これはタムヤンが2千万円貯めたらすべてを
引き取りに来てくれるそうで待っている
ところです(^_^)
いや、1千万円だったかも知れません(^^)
無欲でありたく、物欲をなくしたいとは
いつも想っています。
でも一方、オカネは稼がないと生活が辛く
なるので頑張ろうと仕事をします。
しかしこのために自分自身の時間を切り売り
することになります。
ここらの兼ね合いが難しいところです。
働き過ぎるとオカネは入っても子供たちとの
関係を悪くします。でも働かないと家族は
食べ物を買えなくなります。
オカネはモノとの引換券なわけで・・・
生活には様々なモノが必要なわけで・・・
で、ワシの場合は自分で集めたモノは
自分を幸せにしてくれる仲間みたいに想い、
もうその時期が過ぎたら売ってしまうという
方法をとっています。
売って得たオカネは次のモノと引き替える
わけですね。
無欲になりたいという心は常にありながら、
その日はいつか自然に来るだろうから、
それまではモノを集めてウントコサ楽しもう
という気持ちになっているんですよ。
それと、
何かを欲しい、買いたい、、という欲望が
自分の中に生まれるとき、そのときの自分には
明らかに強いエナジーが発生します。
物欲が発するエナジー、、これって一見
悪そうかも知れませんが、何も欲しくなくて
グタリとしている自分よりもハツラツとして
いるので、そういう自分が好きになれます。
元気を出して上に伸びよ、仕事をせよ、
モノを得よ、楽しく生きよ。。。
きっと、
ワシって、そういった元気タイプなんですね。
じっとしてるのに耐えられなく、
生きてるかぎりはガシガシと何かをしている
野郎なんですね。
でも、この世を離れるときは
いささかの未練も物欲も捨てて
あっさりと未来の世界に跳んでしまえる
という自信はありますよ。
皆さんのコレクションの気持ちも
聞きたいですね〜
市より、
とても良い質問ですね〜
良い答えは出せませんが、これは人間同士とし
て語り合うべき事柄ではないかと想います。
自分がこの世を去ったとき自分の所有物がどう
なるのかに関してはワシとしてはまったく
気になりません。
それらのモノは 家族が使い、他人に譲られ、
どこかで誰かが使うでしょうからノチノチの
ことなんてどうでもよいと想っています。
ただ、どうしてこんなにモノを集めるのか、
そんな自分がよく解りません。
あきらかにこれは物欲の現れだと想います。
物欲はよいことではないと感じています。
でもタバコや酒で飲んでしまうというよりは
カタチに残るモノっていいな、と想います。
たとえば、ワシの目の前にはアンティックの
キャメラがドドドと並んでいます。
これらは動きますが、仕事で使えるモノでは
ありません。
ただ、
それらのひとつひとつに子供のころの憧れや
想い出や、喜び悲しみも詰まっており、
眺めていると一瞬にして昔の自分の心に
戻ることができます。
このスタートキャメラでドキドキしながら
初めての撮影をしただとか、高校になって
写真部に入り 月賦でネオカを買って恋した
彼女の前を通りながらノーファインダーで
撮影し、それを上げたら驚いてくれて仲良く
なっただとか・・・
新聞広告に載ったプリモJRが欲しくて
欲しくて身をよじってしまった辛い想い出
だとか・・・
そんな自分の過去を甘酸っぱく想い出し、
もっと頑張ろうと自分を励ますんです。
他人からは物欲に見えても、心の中にある
昔のアルバムとなっているんですね〜
本もいろいろと持っています。
でもこれらはいつかまた読みたいので
ジャマとは感じません。
時計がこれまた多いんですが、カワユイ
やつらなので、やがて子供達が昔のディザイン
の素晴らしさを知り、アートの心を養うこと
でしょう。
ナイフがこれまたドッサリあるのですが、
これはタムヤンが2千万円貯めたらすべてを
引き取りに来てくれるそうで待っている
ところです(^_^)
いや、1千万円だったかも知れません(^^)
無欲でありたく、物欲をなくしたいとは
いつも想っています。
でも一方、オカネは稼がないと生活が辛く
なるので頑張ろうと仕事をします。
しかしこのために自分自身の時間を切り売り
することになります。
ここらの兼ね合いが難しいところです。
働き過ぎるとオカネは入っても子供たちとの
関係を悪くします。でも働かないと家族は
食べ物を買えなくなります。
オカネはモノとの引換券なわけで・・・
生活には様々なモノが必要なわけで・・・
で、ワシの場合は自分で集めたモノは
自分を幸せにしてくれる仲間みたいに想い、
もうその時期が過ぎたら売ってしまうという
方法をとっています。
売って得たオカネは次のモノと引き替える
わけですね。
無欲になりたいという心は常にありながら、
その日はいつか自然に来るだろうから、
それまではモノを集めてウントコサ楽しもう
という気持ちになっているんですよ。
それと、
何かを欲しい、買いたい、、という欲望が
自分の中に生まれるとき、そのときの自分には
明らかに強いエナジーが発生します。
物欲が発するエナジー、、これって一見
悪そうかも知れませんが、何も欲しくなくて
グタリとしている自分よりもハツラツとして
いるので、そういう自分が好きになれます。
元気を出して上に伸びよ、仕事をせよ、
モノを得よ、楽しく生きよ。。。
きっと、
ワシって、そういった元気タイプなんですね。
じっとしてるのに耐えられなく、
生きてるかぎりはガシガシと何かをしている
野郎なんですね。
でも、この世を離れるときは
いささかの未練も物欲も捨てて
あっさりと未来の世界に跳んでしまえる
という自信はありますよ。
皆さんのコレクションの気持ちも
聞きたいですね〜