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2017年03月04日

一粒の砂 2

市 (2017年03月04日 12:54) │Comments(8)一粒の砂
一粒の砂 Ichiro 永田 伝

 by Ken NOZAWA

 自分の人生を自身が想うようにハンドルできていない。
 死ぬっていう選択も悪くない。
 若き日のイチローはそう考えた。自身の判断で「自分の人生」に幕を引くことがあっても良いと想像った。

 多くの若者は将来への不安や絶望感から死を考えることがあるという。それは今も昔も変わらない。一つの答として「死」がある。「死」もある。であるならば、イチローが何らかの理由から死を選択したとしても不思議ではない。ただ、後の、つまりはGUNライターとして活躍することになる三十代や四十代の、そして五十代のイチローの生きざまを知る多くの人にとって、若かったとはいえ、二十代のイチローが死を考えたという事実に対し、その後の「イチロー像」と上手く結びつかないかもしれない。写真での仕事が願うように行かないからと、死を選ぶという理由は弱く思える。理解し難い。

 なぜイチローは「死という選択も悪くない」とまで考えたのか。
 その真意を理解るには、そもそもの、イチローと写真との繋がりを知らねばならない。
 死をも考えた二十九歳の時から、さらに時計の針を二十年ばかり戻さなければならない。


 イチローが写真機の存在を身近に感じたのは、佐世保に住んでいた小学三年生の遠足の時だった。同級生の友達が家から持ってきた写真機を見て、≪そんなモノがあるのか!≫と、身体が蒸発しかねないほどの興奮を覚えた。それは途轍もなく輝いて見えた。
 日本が貧しかった昭和二十年代の話になる。

 昭和二十年八月。終戦を迎え、国民は空襲の恐怖からは解放されたが、まだまだ食べていくのが精いっぱいの時代だった。いや、まともに食べられない人も多かった。
 飯が食べたい! 
 腹いっぱいの飯が食べたい!
 それは全ての国民の願い、夢でもあった。
 貧しさから脱したいと誰もがもがいていた昭和二十五年。朝鮮戦争が始まると日本は特需に沸いた。一気に景気は良くなった。その景気は昭和四十八年の第一次オイルショックまで続き、日本に高度経済成長を実現させることになる。
 そんな、「貧しい日本から豊かな日本」へと向かっていた昭和二十年代、そして三十年代、日本人にとって写真機は特別な存在だった。当時の日本人にとっての写真機は写真を撮るための道具というより、豊かさの象徴であり、事実「財産」でもあった。
 少し話は前後するが、世界に知られる写真機メイカーの日本光学工業株式会社(現・株式会社ニコン)が初めて開発した本格的な一眼レフ写真機の「ニコンF」は昭和三十四年に発売されたが、その価格は、当時の大学卒初任給の7倍であった。現代に物価換算すれば140万円を超えることになる。さらに、毎日の食事もままならない時代背景も加味するならば、その価値は現代での200万円、300万円にも匹敵すると言える。
 昭和二十年代、そして三十年代。日本人にとって写真機は特別な存在であり、財産であり、一つの「富の象徴」と言えるのには、そういった理由がある。
 ここで書くまでもないが、イチローの友達が遠足に持って来た写真機は、そんな特別なものではなかった。
 ニコンFが発売されたのと同じ昭和三十四年にはオリンパスから「オリンパスペン」が発売され、コンパクトカメラの代名詞と呼べるほどのヒットとなり、それは庶民が購入できる価格ではあったが、こちらもまた、イチローが目にした写真機ではない。
 友達の手に握られていた写真機は名もなき玩具のそれであり、フィルムも、ニコンFやオリンパスペンに使用される35mmフィルムとは別の物だった。子供用の「豆カメラ」と呼ばれるものであった。ただ、玩具の一種とはいえ、実際に写真を撮れるという点にイチローの血が湧いた。

 ≪ほしいっ! あの写真機がほしいっ!!≫

 心の内に何度も何度も叫ぶも、声には出さなかった。そんな余裕など自分の家には無いとイチローは知っていた。毎日の食事でさえ満足にできていないのだ。写真機など買ってもらえるはずもない。
 それでも写真機への、写真への興味が募るばかりだったイチローは、子供向け雑誌の付録としてあった「日光写真」を見つけると、それで画を作ることを楽しんだ。「日光写真」で作られる画は、作品は、創作の入らない「写し絵」でしかないが、感光紙に画が浮かび上がるという現象と、自分が作品を生み出していると感じられる遊びは深く愉しめた。

 あの、遠足の想い出から五年。
 中学二年生となったイチローは友達の写真機を借り、生まれて初めてシャッターを切った。写真を撮った。その時の喜びと高揚感は、さらにイチローを写真の世界へと惹き込んでいくこととなる‥‥。

◆    ◆    ◆

 イチローが通う中学校に一人の女性教師が入ってきた。歳は三十歳前だろうか、パリで美術を学び、帰国後に鹿児島の中学で美術を教えるための赴任‥‥というもので、それが、イチローと女性教師の、園田先生との出会いだった。
 
ここで少しばかり説明すると、イチローの中学生時代といえば昭和も三十年代に入ったばかりのころで、日本人が海外へ自由に出かけられる環境はなく、そもそも法律的に許されていなかった。その後、「海外旅行の自由化」となる昭和三十九年までは、外国へ出られるのは政府関係者や仕事関係者といった、限られた人のみであった。
 そんな中、パリ帰りの園田先生が現れた。生徒たちはもちろん、同僚の教師たちにとっても「外国」は文字通りに未知の国で、それどころか、教師たちは標準語さえ話せないという当時の鹿児島に突如、フランス語と「東京弁」を話す女性が現れたのだ。

 園田先生が登校・出勤時に身に着ける洋服は当時のパリジェンヌそのものだった。その容姿は東京の街中であっても目を惹くものだったと想像できるが、昭和三十年代の鹿児島においては、なおさらであった。
 この先生は特別な人だ!
 生徒たちはそんな目で見つめていたが、当の園田先生は生徒たちを子ども扱いせず、尊重し、対等な人としてフレンドリーに接していた。それがまた人気を呼んだ。

 ある時、美術の授業の中で蓋付きの木箱を作ることになった。大きなものではない。両手を出せば、ポンと乗るような小ぶりのものだ。
 与えられた木材は「ホウ」で、それは下駄の歯や家具材として、楽器材として用いられることが多く、加工しやすく狂いも少ないことから日常生活の中でもよく見かける。
 生徒たちにはすでに加工されている素材が渡されたため、組み立ては容易だった。パコパコっと部品を合わせていくことで完成する。園田先生は、その完成した箱に自由に図案を描き、彫刻を施すよう生徒達に伝えた。六面の内の五面に彫刻するようにと言った。

 ≪彫刻か‥‥≫

 イチローの家は絵具さえも買ってもらえない貧しさにあったが、たまたま臨時収入があったのか、美術の授業での課題について話すと彫刻刀を買ってもらうことができた。喜び勇んだイチローは、何を彫ろうかと考える。題材になりそうなものは無いかと身の回りを探した。
 ――― ひとつの丼が目に留まった。

 その頃、イチローの両親は知り合いの家を回っては、時には紹介を受けて個人宅を訪ねては、美術品や古書を借り受け、それを美術館に納めて利ザヤを稼ぐという仕事をしていた。そんな環境もあってか、イチローの家では美術品が普通に目についた。
 父親も元々、そういった物に興味があったようで、「宝物」の一つとして柿右衛門の丼を大事にしていた。
 『柿右衛門』は、初代柿右衛門(=酒井田柿右衛門)が寛永十七年(1640年)に「赤絵」を創始したことに始まる。それは白磁の美しさとの調和性を極めたものとして現代の第十五代・柿右衛門まで受け継がれている一大作品である。夕日に映える柿の実を見た初代が赤絵磁器を創ったことから、その歴史が始まったという逸話がある。

 イチローは父親が大切にしていた柿右衛門の丼が好きだった。そこに芋や麦飯をよそっては食べていた。親しみのある絵柄が気に入っていた。
 そんな流れもあり、柿右衛門の赤絵を彫刻の図案と決めるや、いくつかの柿が下がった画を立体的な三段彫りで仕上げ、提出した。

 後日 ――― 。
 美術の授業が始まると、園田先生の手にはイチローが作り上げた箱があった。
 その箱を生徒たちに見える場所に置くと、言った。
 “皆さん。そこにいる永田君のことを、大人になっても覚えていてくださいよ‥‥。永田君はきっと、有名な芸術家になると私は信じています。
 この年齢で、これほど立派な三段彫りができる人を、私は見たことがありません‥‥。
 必ず有名になりますから‥‥”

 そう言われた当のイチローはキョトンとなった。
 ≪ただ彫っただけだよ。先生もオオゲサだなぁ‥‥≫
 イチローは、そう受け止めた。
 その言葉は、イチローが、自身の体内に「創作の血」が流れていることを自覚する前の話でもあり、園田先生の言を頭から信じることはなかったものの、真剣な眼差しを持ってそう語る姿はイチローの心の支えになった。その言葉は心の頼りどころとなった。
 絵具どころか学級費も払えず、構内用の上履きも買ってもらえず、弁当を持っていけない日には同級生の眼を忍んで空腹を満たすために水を飲んで過ごした極貧時代、園田先生の言は一つの希望となった。
 そう。それともう一つ、当時のイチローを癒したものがある。
 イチローの何よりの楽しみは図書館で借りられた『怪盗ルパン全集』と『シャーロックホームズ全集』を読むことだった。少なくともそれらの本に夢中になっている瞬間だけは、赤貧洗うが如しの苦しみから解放され、こころ豊かに、愉快な夢の世界を満喫できた。

 愉しかった日光写真の想い出。
 園田先生に評された記憶。
 そういった出来事がイチローの中に方向性を生み出す。
 ≪いつか物を作る、創る仕事に就きたい。追究したい!≫
 不透明ながら自分の将来の姿を思い描いた。

◆    ◆    ◆

 “進路についての説明会があるから、「就職組」と「進学組」に分かれるように‥‥”
 卒業を半年後に控えた中学三年生の秋、担任の教師が言った。
 イチローは「就職組」に向かった。
 昭和三十三年。イチローが中学を卒業するその時代、世間では中学卒業と同時に職に就く子供たちを「金の卵」と称していた。高度経済成長の真っただ中にある日本ではいくらでも労働力が必要だった。東北地方からは特に多かったが、都会には、全国各地から集団就職によって若者が集まった。高校への進学が当たり前と受け止められるようになるのは昭和四十年代も後半のことで、それまでは、中学卒業と同時に社会人になることは特殊でも何でもなかった。
 早く稼いで食うに困らない生活を得たい!
 子供のころから飢えと隣り合わせにあったイチローは迷わず就職を希望した。仮に進学を考えたところで、それだけの経済的な余裕は家にはなかった。
 将来、仕事にするなら写真家か家具職人がいい。
 イチローはそう考えたが、写真家で食べていくという世界は想像し難く、現実的な答えとして家具職人になることを願っていた。名古屋にある『サカイ木工所』への就職も決まっていた。

 当時、イチローには家具職人として目指す夢があった。
 テーブルやイスといった家具には実用品としての働きがある。そこは充分に承知しているが、巷に溢れるテーブルやイスを目にするたびに、その姿かたちがどうにも気になった。日用品としての、実用品としての家具に対し、イチローは同時に「美しさ」も求めずにはいられなかった。彼の内にはそのイメイジがあり、今すぐには形にできないが、いつかそんな家具を創れる職人になりたいと欲していた。

 中学を卒業したら家具職人になる!
 その決心を持っていたイチローに、卒業間際、長兄から上京を誘う知らせが入る。
 “これからの時代、高校には行っておけ‥‥”
 長兄・勝男がイチローの将来を想い、東京での高校進学を勧めたのだ。
 戦後、イチローの家族は離散していたため、長兄・勝男の存在は知っていたものの、その記憶はイチローにはなかった。無理もない、物心がつくころには家にはいなかった兄だ。
 そんな兄からの連絡だった。

 東京での生活。高校進学。
 そのどちらもイチローが思い描いていた人生路とは違うものの、思いもよらなかった誘いではあったものの、「新しい人生が開けるのでは‥‥」という想いが勝ると決断した。
 イチローは、東京は中野にある堀越学園に入学する。

 後年、「芸能人御用達」として名を馳せる堀越学園に身を置くことにはなったが、学業には興味が湧かなかった。学校での勉強が好きではなかったことと、ほんの数か月前まで「中学を卒業したら就職する」といった決心があり、自分の中での「切り替え」ができていなかった。学校の勉強よりも他にしたいことがあった。高校への入学時に紹介のあった写真部に入り、写真を撮りたかったのだ。
 だが、写真機が無い。兄の勝男も持っていない。もちろん強請ることもできない。
 写真機は特別な存在。高価な存在であった。

 それでも‥‥と、イチローは、自身の担任であり写真部の顧問でもある伊東に相談した。
 “伊東先生。写真機は持っていませんけど、写真部に入ってもいいですか?”
 “ああ、いいぞ。まずは誰かのネガを借りて焼きから覚えりゃいいさ”
 伊東が「焼き」と言ったのはフィルムから写真を作る作業のことだった。

 プリントされた写真を作るには、フィルムを引き延ばし機に掛け、その下に印画紙を置き、フィルムに光を当ててできる影を印画紙に落とすところから始まる。原理的にはイチローが小学生のころに愉しんだ「日光写真」と同じだ。
 そうやって光りが当てられた印画紙は次に現像液に浸けることで画が浮かび上がる。さらには定着液に通し、その後に水洗いし、乾かすことでプリントされた写真となる。

 伊東は、カラッとした、晴れ晴れとした先生だった。他の陰湿な教師たちと違い快活で、生徒たちにも友達のように親しく接していた。イチローも含め生徒たちは、そんな伊藤に親愛の情をこめて「イトーサン」と陰で呼んでいた。

 その伊東が夏休みの課題として生徒たちに日記帳を配った。
 “何でもいい。遠慮せず、好きに書けよ‥‥”
 ならばと、イチローは思いのたけを、そのまま綴って提出した。


 5月の授業のとき 僕は窓際の席にすわった
 授業を受けるふりをしながら 横目で外を見ていた
 そよ風が吹いて緑がきれいだ
 ああ 外に行きたいな
 写真機を持って撮影して歩きたいな
 僕は写真をやりたい
 だけど教室でつまらない数㈽をやらないといけない
 そんなものには興味はない
 まわりの大人に数学は社会で役立つのかと聞くと
 医師である兄でさえ受験が終わると忘れたという
 もう方程式は解けないという
 たぶん 僕が大人になっても数学は役に立たないだろう
 国語は大切だと思うが英語もいやだ


 夏休みが終わってしばらくすると伊東から呼び出しがあった。
 “永田、おまえな。こんど「写真局」というのができるから、おまえそこで独りでやれ。これは生徒会直属の部署で、遠足や行事の時に撮影をするって役だ。予算は写真部よりも多いから、印画紙も現像の薬品もふんだんに使えるぞ‥‥”
 突然の提案。あまりの話。
 呆気にとられているイチローに向かい、伊東は続けた。
 “それからな、外に行きたいときは、いつでもハンコを押してやる。それで撮影会でも何でも、どこにいってもいいぞ”

 伊東はイチローの日記を読み、真っ直ぐな想いと訴えに共感すると、その願いを職員会議の場で訴えたのだった。
 “この生徒は写真が好きなんです。そこに打ち込みたいんです。彼の才能は先生方も知っているでしょう。その想いに応えられないで教育と言えますか!”
 イチローの味方となった伊東は、あろうことか、彼に自由に写真を撮らせる場を与えて欲しいと訴えたのだ。
 “いや、自由にと言っても、高校生の本分は学業でしょう”
 他の教師からは当然の反論が上がる。
 “学業よりも写真を優先とは何たる言いぐさか!”
 声を荒げる教師もいた。侃々諤々の職員会議が続く。
 が、やがて、一つの結論に達する。全ての教師が一つの答えにたどり着く。
 「写真局」という立場での自由な活動が与えられたのだ。
 伊東がハンコを押し、撮影のための外出であれば「公欠」となる。
 つまりは、朝、登校したのち、ハンコをもらい、写真機を持って撮影のために学校から出ても、それは出席扱いと見なすという公式な回答であった。

 いくら時代が時代とはいえ、私学とはいえ、あまりにも突拍子もない結論と言えるが、その判断を学校が下すにおいて、これまでのイチローの実績が後押ししていた。
 写真部で活躍していたイチローは、各種写真コンクールへの作品投稿も頻繁におこなってきた。伊東が新しく買った200ミリレンズを借り、それを友人から借りたペンタックス写真機に付けて撮った写真が雑誌の『カメラ芸術』に佳作入賞となっていたことも、学校側が判断を下すうえで力となっていた。
 イチローの向上心と熱意が人生を変えた。切り開いた。

 その時期、イチローにとっての写真とは、すでに「趣味」と呼ぶには重かった。いや高貴かった。どこか自分の存在を実感できる、表現できる、証明できる手段となっていた。そのためか、一生を掛けて追求するだけの、価値ある対象だと強く信じた。
 高校卒業後には写真専門学校へ進む。
 そう願っていたイチローだったが、当時、写真専門学校へ進むという選択は、安定した収入が得られるサラリーマンの道から外れることだと見下されており、そのため、級友のほとんどが「人生からのドロップアウトだ!」と、面と向かって口にした。

 そんな級友に対し、イチローは毅然と言った。
 “写真でダメだったら、死ねばいいんだろ?”
 
 決心。決意。意志そのものが違っていた。
 
◆    ◆    ◆

 毎年、一つの写真学校へ入学する生徒数は100名ほどになる。彼らの誰もが写真が好きで、その世界で生きていきたいと願っている。とはいえ、その中から写真を仕事にできる者は、写真で食べていける者は一名か二名でしかない。実力がモノを言う世界だ。
 そんな「一名か二名の内の一人」だと、入学当初から、写真学校の級友たちから目されていたイチローは、中野のレコード屋でアルバイトをしながら写真の勉強を続けていた。いや、写真の勉強と言っても貧しくフィルムを買うお金もなく、よく「空撮り」をしていた。フィルムを入れないままシャッターを切っては「形として残らない傑作」を生んでいた。
 ただ、貧しいとはいえ、アルバイト先では好きな音楽を聴ける。好きな写真にも没頭できる。イチローにとっても幸せこの上ない時間が流れていたはずと思えるが、その時、どうしても解決できない、我慢できない写真での問題があった。


 「写真」というのは写真機を使い、光によって描かれる画だ。絵画とは手法は違うが印画紙というキャンパスに画を描く。そのためフレイムが存在する。縦と横の縁がある。
 その縁とは何か?
 その縁の存在がイチローには耐えられなかった。
 言うまでもなく、縁が無ければ写真は写真に成り得ない。世の中をどう切り取るか、どう縁を決めるのかも含めて「写真」となる。
 そんなことは分かり切っているイチローだったが、どうしてもフレイムが、縁が気になった。だからと言って縁が無ければ解決するという話でもない。イチローを悩ませる問題は写真における技術的な課題ではなく、哲学的な問い掛けであった。
 そうなると、もうどうにも写真が撮れない。好きだった写真を撮る気になれない。
 級友たちに、そして講師に高く評価されてきたイチローではあるが、自身が想い描く写真と実際に形となる写真とが、ひどく乖離した世界に見えた。

 “土門 拳も、そんな悩みを持ったことがあるか‥‥”
 日本を代表する写真家として、そして尊敬する一人の写真家として、イチローは土門 拳を想った。

 明治四十二年に生まれ、昭和を代表する報道写真家・土門 拳は、後世の写真家に多大な影響を与えてきた。著名人のポートレイトを、そして庶民のスナップ写真を、多数の名作を残している。イチローはそんな土門 拳の作品に感銘を受け、いつか自分も、自分なりの世界観を写真で表現できれば、伝えられればと願っていた。
 月刊GUNでのデビュー後、国内・外の多くのガン専門誌においてガンの美しさを表現し続けてきたイチローの仕事ぶりから誤解を受けることもあるが、彼が写真家としての真価を発揮するのは報道写真やスナップ写真の世界であり、イチロー自身、その分野が好きで得意だと語る。

 “写真というのは、分からんな‥‥”
 専門学校では写真撮影に関しての心構えや技術的な事は教えてくれるが、イチローが抱えている悩みは、学べば学ぶほど、追求すればするほど深みを増すばかりだった。
 どうしたものか‥‥。
 ふと、写真を止めてしまおうかとの想いもよぎるが、いや、これは自分の未熟さが原因であって、何らかの解決が成せるはずだと考え直す。先が見えないこの一件も、自身に課された試練の一つだと飲み込む。
 そういった物事の受け止め方は、どうやらイチローの資質と思われる。
 これまでも、それはイチローが幼少のころから普遍的にではあるが、「壁」にぶつかるたび、「必ず道はある。突破口はある」と信じ、自身を前進させてきた。「壁」は自分を成長させる好機だとも捉えてきた。いや、どこか、自ら、困難を求めた節さえある。

 “天よ 我に艱難辛苦を与えたまえ!”
 そう叫んで過ごした青春時代がある。

 ――― とはいえ、今のいま、何をどうすればよいのかのヒントすらつかめない。
 悩みを解決できないままのイチローだったが、何を想ったか、久しぶりに愛用の写真機に35ミリレンズを取り付け首から提げると雑多な街中へと出かけていった。別段、何かを意識して写しているふうではない。目的を持って歩いているふうでもない。ただただ意味もなく、考えも無しに彷徨っているとしか思えない。とはいえ、よく観ると、愛用の写真機のセルフタイマーを利用し何かを撮っているには違いないが、それがどういった想いからで、どういった狙いを持っているのかは見えてこない。
 実は、その時のイチローは、偶然に写る、自分ではコントロールできない世界、画というものを考えていた。
 いつもの歩き慣れた商店街を進み、セルフタイマーを利用してシャッターを切る。自動的に8秒後の世界が写る。そこで写る画とは、世界とは、偶然なのか? それとも必然か?
 イチローにもその部分は分からなかったが、ただ、自分の意識が入り込めない画ができることだけは確かで、そこには、見慣れた街があるものの、どんな建物が、どんな人の顔が写るのかが予測できない世界がある。写真技術を超越したものがある。
 その一方で、自分の目の前に広がる状況を、一瞬を切り取って写しだすという行為に、世の中の歴史の一コマを写実的な画として定着させる「写真撮影」という行為に、イチローは奇跡を感じていた。

 街中をうろつき、偶然に写った中から一枚を選ぶと、迷うことなく、イチローは写真学校への課題作品として提出した。その提出はイチローにとって充分に意味のある、そして正しい選択ではあったが、いつもの課題作品と比べると、別人の写真といった作風であった。ああ、いや、偶然に写しだされたものなので「作風」という表現は正しくはないが、調和がとれ、バランスも整ったいつものイチローの写真と比べると、「失敗写真」と呼べるような仕上がりであった。
 不安は的中し、後日、やり玉にあげられた。


 “それは失敗写真です!”
 “構図もデタラメで成っていません!”
 “いや、そもそも、作品とは呼べません!”

 この作品を観てどう思うかという講師の問い掛けに対し、写真家を目指す級友たちは一斉に非難を始めた。その中には、“永田の作品とは思えない‥‥”と、首をかしげる者もいたが、それも多くの否定的な意見に打ち消された。
 彼らの声を聞きながら、イチローは級友たちと自分との差異を感じていた。
 バランスのとれた画を作り上げるのは、たやすい。
 高評を得るための作品も、狙って完成させられる。
 ただ、そんな写真に、どれほどの意味と価値があるのかがイチローには解せなかった。
 この教室の中で、自分以外に、その「失敗写真」の意味するところは分からない。
 そう思うと、あえてイチローは反論する気にはならなかった。反論したところで理解などしてもらえない。自分の問題解決にはつながらない。

 ひとしきり生徒たちに意見を挙げさせていた講師は、締めくくりとしてか、イチローへも意見を求めた。どういった意図でこの写真を撮ったのか、提出したのかを求めた。
 その作品の何たるかはイチロー自身にも分からない。解らない。
 何しろ偶然に、たまたま写った写真なのだ。説明のしようもなかった。
 立ち上がったイチローは素直に自分の気持ちを口にした。
 “それしかなかったんです。そうするしかなかったんです”
 イチローの、説明とは言えない説明に、意見とは呼べない意見に再び教室内はざわめいたが、その声を抑えると、講師は静かな口調で続けた。
 “この写真に対して色々な意見があった。その多くは否定的な意見だ。確かに、この写真の構図は成っていない。写真家を志すものの写真としては未熟すぎる。しかも、何を狙ったものか、何を表現しようとしたのか、その全てが不明で曖昧だ。つまりは作品とは呼べない‥‥”
 そこまで語ると講師は生徒たちの顔を見た。そして、教室の全員が、自分の言うことに耳を傾けている確認を取ると、続けた。
 “ただ、この作品には、いま君たちが語ったコトとは別の意味がある。意図がある。いつか君たちが、この永田の撮った作品の真意を、いや「深意」を感じ取れる日が来ることを心から願っている”
 “‥‥ ‥‥”
 “‥‥ ‥‥”
 “‥‥ ‥‥”
 言葉を失ったままの生徒たちを残し、講師は教室を後にしていた。
 気が付けばイチローもまた、教室を出ていた。


 残念ながらイチローが課題として提出した「失敗写真」はイチローの手元にはない。提出した課題作品は卒業時、生徒一人一人に返されたのだが、イチローは「卒業」という資格に興味がなく、気が済むと自主的に学校での学びを終了していたため、自分が提出した作品は一点も受け取っていない。
 「失敗写真」も含めイチローが仕上げた全ての作品は、「永田はいつか名をあげる」と信じて疑わない級友たちが、“同じ時代に学んだ証拠にする!”と言って持ち帰った。
 そのため、一点の作品もイチローの手元には残っていない。


 少年時代のイチローにとっての「写真」は趣味だった。熱中できる対象の一つであった。それがいつしか、本人にも自覚が無いうちに趣味とは呼べない存在となった。
 仕事で写真を撮るようになると、それは生業となったわけだが、食べるための手段だと割り切ることも、金を稼ぐための方便だと信じきることも、イチローにはできなかった。
 「写真」というものを割り切って見られるなら、方便だと自分を納得させられるなら、どれほどラクであったことか。だが、イチローにはそれができない。
 イチローにとっての写真とは何か?
 それを知ってもらうには、もう一つの実話を書くしかない。

 
 1980年代の後半、イチローは米国の銃器専門誌の一つ、「アメリカンハンドガンナー」での仕事を受けていた。編集長キャメロン ホプキンス(当時)がイチローの写真を気に入ったことと、何よりも二人の馬が合ったことから気持ちよく写真を撮り続けた。
“イチローは世界ナンバー1のGUNフォトグラファーだ!”
 イチローの写真が誌面を飾ると、ガン好きの読者からは自然とそんな声が挙がった。その想いはアメリカンハンドガンナー編集部でも同じだった。キャメロンはもちろん、それ以外の編集部員、デザイナーたちは、イチローが撮った「アメリカ人の心を揺さぶる写真」を観るたび、
 “どうして日本で生まれ育ったイーチに、こんな雰囲気のある写真が撮れるんだ?”
 と呆れ、驚いた。
 “これが才能ってやつなのか? 本物のアーティストってことなのか?”
 なぜ、イチローが感動的な写真を生み出せるのかは分からないが、目の前に広がる作品のどれ一つをとっても、「非凡」であることは伝わった。
 
 ある号において、イチローはシングルアクションリボルバの写真を依頼されると、いつものように自身が想うままに画を創り、完成させ編集部に送った。数日後、これもいつものように「写真を受け取った」という報告のための電話がキャメロンから入る。
 “今も編集部のみんなと話し合っていたんだが、イーチの写真は本当にすごいな。よく、こんなに雰囲気のある写真が撮れるな。あのな、イーチのフォトスタジオのゴミ箱の中身は、俺たちガン好きにとっては「宝の山」だからな、もし処分するってことがあるなら、その前に声を掛けてくれ!”
 興奮したキャメロンが言った。
 “ああ、ありがとう。次はもっといい写真を撮るよ”
 キャメロンとは対照的にイチローの声は静かだった。いつもの対応だった。そして、そのままそこで会話は終わり、双方が電話を切るのが常だったが、その日は違った。キャメロンが不思議そうな声で会話を続けたのだ。
 “あのな。イーチ。俺が、「いい写真をありがとう」って連絡すると、お前はいつも、「次はもっといい写真を撮るよ」って答えるよな”
 “ああ、そうだね”
 “う~ん。一つ聞きたいんだが。それってヘンじゃないか。お前は、イーチは世界ナンバー1のGUNフォトグラファーだよな。そうだろ?”
 “ああ、そうだよ。世界ナンバー1だよ”
 “イーチも分かっているのか。それなら話も早い。世界ナンバー1のGUNフォトグラファーっていっても、二位と競っての一位じゃない。ぶっちぎりの一位だ。振り返っても、二位の影すら見えないダントツの一位だ。そんなお前が、「次はもっといい写真を撮るよ」って言うのは、ヘンじゃないか?”
 そこまでのキャメロンの語りを聞くと、イチローにも、キャメロンが何を疑問に思っているのかが理解できた。ああ、そういうことか‥‥と合点がいった。キャメロンの素直な質問を微笑ましくも感じ、その想いに応えるべく、イチローはありのままを、自身の気持ちをそのまま口にした。
 “あのね、キャメロン。ワシは、自分の中に、撮ってみたい、完成させたいっていう写真があるんだ。これまで頑張って撮ってきたけど、その、自分が想い描く写真と実際に撮った写真とを比べると、ぜんぜん追いつかないんだよ。届かないんだよ。「いい写真をありがとう」って言われるのは嬉しいけどね、そう言われるたびに、「こんな写真じゃダメだ!」って思うんだよ。世界一だとか何だとか、そんなのはどうでもいいんだ。そこには興味が無いんだ。もっともっといい写真を撮りたいだけなんだ‥‥”
 
 “‥‥ ‥‥”

 キャメロンは返答の仕様がなかった。
 世界ナンバー1の男が「こんな写真じゃダメだ!」と言う。
 「世界一なんて興味が無い」と断言する。
 本物のアーティストだからか?
 それとも日本人のメンタルはアメリカ人とは違うのか?
 イチローの言葉は理解できる。言っていることの正しさは頷ける。それでも、だからといって、イチローの哲学の高みまではキャメロンの思考も想像も及ばなかった。

 “そ、そうか。わかった‥‥。次もたのむ‥‥”
 それだけの声を絞り出したキャメロンは受話器を置くと、編集部員たちに向かい、デザイナーたちに向かい、叫んだ。
 “おい。俺たちはイーチのことを誤解していたぞ。アイツはとんでもないことを考えているぞ!”


 イチローにとっての写真は趣味でもなければ単なる仕事でもない。
 写真が好きだ。少しばかり巧い。
 言うまでもなく、そういった付き合いでもない。
 イチローにとっての「写真」とは、自己の存在を感じられる、証明できる手段とも言えた。自身の中に流れる創作の血を思う存分に燃えたぎらせる対象であった。
 そんな付き合いが続いてきた写真と今の自分とが、どうもしっくりこない。
 仕事でお金のためにシャッターを切ることはできる。そこがイヤなのではない。
 想うように、願うように、自分と写真との関係を、写真を自分の人生の中でどういう位置づけにすべきかが見えてこないことに、イチローの悩みはあった。

 “う~ん。どうしたものかな‥‥。いっそ死ぬか‥‥。
 このまま駆れば富士も近いしな‥‥”
 その瞬間、イチローにはこの先の、自分の人生を描けなかった。死ぬというのも悪くは無い。だが、良くもない。
 “う~ん。どうしたものか‥‥”

 イチローには珍しく、どこかぼんやりと車を運転していたようだ。次の瞬間、「川崎」の標識を目にすると慌ててハンドルを切る。川崎に住む先輩・北野を尋ねるため高速出口へと進む。

 北野が住むアパートに着いたイチローは仕事に必要と思われる要件、用事を手早く済ませた。何かに焦っているわけではない。ただただ、気持ちが落ち着かなかった。
 そんなイチローの様子に不自然さを見てとった北野はイチローに向かい、話せるなら話してみろと促した。
 “実は‥‥”
 イチローは自分の想いを語った。うまく伝えられない部分もあったが語った。
 “そうか‥‥。なるほどな‥‥”
 ときどき頷きながら聞き役に回っていた北野は、一通りイチローの話を聞くと、独り言のように言った。
 “確か、永田には、アメリカに住んでいるお姉さんが居たよな。俺だったら、そんな想いで日本に居るくらいなら、思い切ってアメリカへ行くけどな‥‥”

 ≪ え!? アメリカ!?≫

 他人の口から言われ、初めて、自分にはそんな選択肢もあることにイチローは気づいた。
 “アメリカ‥‥。アメリカか!!”
 今度は声にして、そう叫んでいた。
 “そうか。アメリカがあったか。そこで死ぬのもいいな”

 一瞬にしてイチローの抱えていた闇が消えた。
 「第二の人生」の夜明けを感じた。

 “ありがとうございます!”
 そうお礼を言ったイチローは再び車に乗ると駆り出した。高速を駆りだした。
 むろん向かうは富士の樹海ではなく、その先の静岡ではあったが、その時のイチローの目には、まだ見ぬ遠いアメリカの景色が鮮やかに浮かぶ。
 生きる目標ができた。
 喜びを持って進める明確な目標ができたのだ。

 ただ、その目標へと向かうには、どうしても解決しなければならない大きな問題が2つあった。
  


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2017年01月12日

「一粒の砂」 その壱

市 (2017年01月12日 13:59) │Comments(7)一粒の砂
「ビアンキカップへの道」を書いていたケンが新しい長編小説をMJマガジンに連載することになりました。
そこで、より多くの人に読んでほしいと想い ここに転載させてもらうことになりました♪
お楽しみくださいな(^-^)/


 『一粒の砂 Ichiro 永田 伝』

   その壱:大蒜

 “ お~い、トモ。そろそろ昼食にするかぁ”
 パワーカスタムを相棒とし、ムーヴァー撃ちに三昧となっていたイチローだったが、朝練用にと準備した実包を撃ち終えたこともあってか、一緒にムーヴァー練習にはまっていたトモにそう言うと、
 “ ケンとテツヤにも声を掛けてきてくれ! ”
 と、続けた。
 “ わかりました~! ”
 返答したトモはムーヴァーレンジ横にあるプラクティコウレンジへと走った。すぐ隣のレンジと言っても200m ほど離れており、叫んだくらいでは声は届かない。しかも、ケンもテツヤも練習中となればイヤマフを着けているだろうし、何よりも、自分たちの射撃に夢中となっている二人に余所の声が届くはずもない。

 “ ケンさ~ん! テツヤさ~ん! そろそろ昼食にしませんか~!! ”
 15 ヤード先の2 枚の的に向かいウィークハンドでの6 連射を繰り返すケンとテツヤに走り寄ったトモは、二人の背中に叫んだ。イヤマフを着けていようと、これなら確実に聞こえる‥‥という大きな声だった。
 “ あれ? もう、そんな時間? ”
 イヤマフを外したテツヤは振り向きながら答えた。
 “ ええ。こっちは実包も切れましたし、イチローさんも、そろそろ昼食にしないかって‥‥”
 事務的に答えたトモは、そこで少しばかり目つきを変えて、
 “15 ヤードからのウィークですか。やりますね‥‥”
 と、ケンとテツヤの練習ぶりに感心の様子を見せた。

 イチローとトモが、そしてケンとテツヤの四人が、来る日も来る日も取りつかれたようにガンを撃ち続けるのは、一ヶ月後、ミズーリ州はコロンビアで開催される射撃大会『ビアンキカップ』出場のためだった。年に一度、5 月の末に開催される『ビアンキカップ』は、全米はもとより、世界各国から射撃を愛するシューターたちが集まる場でもあった。
 その『ビアンキカップ』だが、試合は四種の競技から成っている。一つはイチローとトモが撃っていたムーヴァー(ムーヴィングターゲット)であり、もう一つはケンとテツヤが取り組んでいるプラクティコウであり、それ以外にもバリケイド、プレイト(フォウリングプレイト)がある。
 プラクティコウという競技では、近くは10 ヤードから、遠くは50 ヤードからの射撃を求められるが、ルール上、10ヤードにおいてウィークハンド(左手)のみでの射撃も含まれており、多くのシューターたちを悩ませてきた。どう攻略するか、どう自身の射撃力を鍛えるかが問われる。
 10 ヤードでのウィークハンド射撃は難敵。
 それを熟知するトモは15 ヤードからのウィークハンド練習を繰り返すケンとテツヤの狙いを汲み取ると、≪次は自分もっ!≫ と、心のうちに自身に言い聞かせていた。

 “ やっぱり、15 ヤードから撃っておかないとね”
 ケンが答えた。
 過去の試合でウィークハンド射撃の奥深さと難易度を痛感しているケンは、15 ヤード練習は必須だと断言する。そこはテツヤも同意見だったことからプラクティコウの練習時間のほとんどを、15 ヤードからのウィークハンド特訓に費やしていた。
 “ ちょうど腹も減ったし、食べたら午後は50 ヤードかな”
 15 ヤードラインに立ったケンは後方の50 ヤードラインを見ながら言った。
 “ そうだよなぁ。50 ヤードも撃っておかないとなぁ”
 テツヤも、遠くの50 ヤードラインに目を向けると同じことを言った。

 “ じゃあ、車を回しますから‥‥”
 四人が乗りこみ、トモがドライブする車は、トモの彼女のアキが昼食の用意をしながら待つ家へと向かった。

 順番が逆になった感もあるが、射撃練習に打ち込む彼ら四人と、その射撃を自由に行えるこの地について少し触れておきたい。

 日本人シューターたちの師となるイチローは、1970 年代に日本の銃器専門誌である『月刊 GUN』にリポーターとしてデビューした。卓越した写真と親しみ溢れる文章によって多くの読者を魅了し絶大なる人気を博すと、わずか数年の内に月刊 GUN の発行部数を十倍に引き上げ一大ガンブームを巻き起こす。イチロー自身は「自分は読者代表としてガンの魅力と楽しさを伝えるだけ」と公言してきたが、その想いが読者と交響したのか、「イチローの記事は面白い!」といった葉書が月刊 GUN 編集部に毎日、毎週、毎月届くと、それに応えるよう第一特集を任され、時には、2 本、3 本と複数の記事を担当することも増えた。
 読者の生の声に、喜ぶ様にやり甲斐を感じたイチローは、日本のガンマニアたちに人気のガンを意識して選び、紹介を続けた。
 が、あるところで、不安を覚える。
 ≪すでに、人気のガンのほとんどを紹介してきた。名のあるガンは紙面に載せてきた。今後、どういった記事を書けばいいのか? 続けられるのか‥‥≫
 イチローが抱いた不安は、モノを紹介するリポーターとして至極まっとうなものであった。ガンの種類は多い。一つずつ、一梃ずつ紹介して行けば、その全部を見せるのに何年も何十年も掛かるだろう。しかし、それでいいのか? ガンなら何でもいいのか? ただ紹介すればいいのか?
 改めて「ガンリポーター」の意味を、そのあるべき姿を想ったイチローは一つの答えにたどり着く。
 ≪自分の言葉でガンを語れるリポーターになろう。誰かからの受け売りではなく、巷にあふれる書物の書き写しでもなく、自身で良し・悪しを語れるリポーターになろう!≫

 ガンの良し・悪しを語れる。自分の意見を真っ直ぐ言える。
 その裏打ちとして、イチローは自身の射撃の腕前を上げることを目指した。誰もが認める射撃力を身に着けることで、そこを基準としガンを評価できるはず‥‥という判断だった。一つの道具を見事に使いこなせる技を身に着けたとき、その道具に対してブレない自分を確立できると信じた。
 「世界一ケンカが強い男は嘘をつかない」
 そう語ったのは空手家の、故・大山倍達だが、イチローの判断はそこに通じるものがある。
 決心からすでに十余年。イチローは拳銃射撃の世界にどっぷり嵌ると、今も、射撃大会の一つである『ビアンキカップ』にのめり込んでいた。


 そんなイチローを師と仰ぐ一人がケンだった。
 幼少のころからガン好きだったケンはイチローの月刊GUN での記事に感化されると、19 歳の時に初めてアメリカの地を踏んだ。縁あってイチローとの付き合いが始まるや、その伝手もあり、大学を卒業すると同時に月刊 コンバットマガジンにおいてモデルガン リポーターとしての仕事をスタートさせていた。
 ≪いつか、ビアンキカップの大舞台でガンを撃ちたい!≫
 29 歳の時、ケンのその夢は叶った。イチローの助けによって実現した。
 それ以降、毎年、春になるとイチローの元を訪ね、イチローを師とし、他の日本人シューターたちと射撃練習に明け暮れる日々を送ってきた。

 ケンと同じく、毎春に渡米してはビアンキカップを目指す男がテツヤだ。
 高校卒業後に勉学と就職のため、実家のある三重県は津市から東京へと移り住んだテツヤは、モデルガンメイカーのMGC が主催するガンショウ会場でケンに出会うと、それを切っ掛けに親交を深め、共にモデルガンを、エアガンを、そして実銃を撃つ仲間として行動するようになっていた。自然とイチローを師とし、ケン以上に射撃に没頭している。

 もう一人、イチローやケンと同じく、月刊 コンバットマガジンでリポーターとして活躍する男がトモだった。トモがリポーター稼業に就いた裏にはケンとの出会いがあったが、そこには、知られざるイチローの想いと助言が絡む。
 何はともあれ、イチローはもちろんのこと、彼ら四人の人となりについては後々、ゆっくり語る機会もあると思うが、ここでは、イチローを求心力とし、ガンと射撃の魅力に強く惹かれた男たちが一心に、飽くなき練習に身を投じる‥‥といった状況にある。
 
 さて。
 毎日、四人が自由に、好きなだけ射撃練習に励める環境だが、その地は、アメリカはキャリフォルニア州のマリポサという街に位置する。「街」と書いたが、シューティングレンジは人里離れた山中にあり、それは、世界に名を轟かす名シューター、ミッキー ファアラの私有地内に設けられていた。
 1970 年代後半。アメリカでのアクションシューティング界が変貌を遂げ始めたその時期、ミッキー ファアラは現れた。スピード射撃において世界一の座に輝き、数々の記録を打ち立てたミッキーは、彼が運営する射撃スクールに生徒としてやってきたイチローと出会う。
 いつしか、「射撃の先生と生徒」の関係を超えた付き合いがミッキーとイチローとの間に芽生えると、二人は「親友」となり、人生を歩み始める。
 後に、ミッキーはマリポサに800 エイカー(約320 万平米=約100 万坪)という広大な土地を購入し、移り住むと、それを機に私有地の一角に射撃場を造った。ビアンキカップ練習のための射撃場を完成させた。さらになお、その環境をイチローが自由に使うことを認め、許した。
 結果、イチローを師と仰ぐ日本人シューターたちは、イチローの指導の下、我が物顔でプライベートの射場を使えるという幸運を得る。

 大自然の中の専用射撃場。
 そこからは日本でも有名なヨセミテ国立公園の山々を遠くに望め、特に、水と空気が綺麗な土地であった。
 加えて、キャリフォルニアは空気が乾燥しているため、夜になると星空が眩しいほどに広がった。星と星とが限りなく近づき、まるで、黒い画用紙の上に大さじ一杯の砂糖をぶちまけたように「白い点々」が重なる。
 余談になるが、ケンが生まれ育った埼玉県の田舎は国立・天文台も設けられるほどに星の観察に適した地ではあったが、そんな田舎で見あげた夜空の、十倍もの星座と宇宙の大きさを眺められる贅沢ぶりに、ケンは毎夜、感動した。
 特に、クッキリと帯状に伸びる天の川の美しさは例えようもなかった。


 トモがドライブし、四人を乗せた車が向かった先には小さな平屋があった。
 小さな‥‥と言っても日本ふうに表現すれば「2LDK」となるだろうか。見た目は山小屋だがシャワーもトイレも完備された快適なる空間であり、日本からやってきたシューターたちの「我が家」だ。

 “ ただいま~! ”
 “ ただいま~! ”
 一人一人がそう口にしながら家の中へ入ると、アキは昼食作りの最中であった。
 トモの彼女のアキは射撃には興味がないが、自然の中での暮らし、生活への憧れもあり、ビアンキカップ挑戦のために渡米したトモと一緒にマリポサへとやって来ていた。そして、何かお手伝いがしたいと、自ら調理役を買って出たことでシューターたちは練習時間を増やせると同時に食生活の充実も図れ、アキには深く感謝していた。

 “ もう少しでできますよ~! ”
 明るくアキが言った。その手にはフライパンが握られ、5~ 6 本のソーセイジが踊っている。そのソーセイジだが、日本のお弁当箱に入れられる小ぶりの可愛いサイズではなく、コンビニのレジ横で見かける、アメリカンドッグやフライドチキンと並べられる大ぶりのものだった。近年、日本のスーパーマーケットでも取り扱いの増えたジョンソンヴィル社のソーセイジだった。
 ジョンソンヴィルのソーセイジにはチーズの入ったものや燻製されたものなど、何種類もの風味が揃っているが、日本人カップシューターたち(ビアンキカップを撃つシューターたちを、短くそう呼ぶ)にとっての定番となっているのがガーリック風味だった。イチロー、ケン、そしてテツヤもトモもガーリック好きで、色々な種類のソーセイジを一緒に求めるも、ガーリック風味だけはいつも多めに購入していた。
 なるほど。台所に限らず、家の中はどこもかしこもガーリックの香りで満ちている。
 香りに釣られフライパンの中のソーセイジをよく観ると、ツルっとした姿ではなく、「これがソーセイジか?」と疑いたくなる形をしていた。あちこちから「芽」が出ていると言えばよいのか、それとも「棘」と表現すれば近いのか、何かがポツポツと飛び出しているのだ。

 “ おお。きょうも特製ガーリック ソーセイジか。これでないと食った気がしないからな”
 フライパンの中を覗き込んだイチローが言った。
 「特製」というのは、太くて長いソーセイジに先のとがった包丁を何度も何度も突き刺して切れ込みを入れ、そこに、スライスしたガーリックを挿し込んだものだった。1 本のソーセイジにガーリックを何個も詰め込む。通常、香り付けや薬味として利用されることの多いガーリックが、ここでは「具材」となっていた。いや、ソーセイジの大きさに対して使われるガーリックの量を見ると、もはや、「ガーリック風味のソーセイジ」なのか「ソーセイジ風味のガーリック」なのか、意見は分かれるに違いなかった。
 見た目にも香りにも、容赦も可愛げもない。手加減がない。
そんなソーセイジに手際よく、アキは醤油やみりんや砂糖で甘辛く味付けをする。

 “ おお、いい感じだな。でも、まだガーリックが足りないんじゃないか? ”
 まな板の上に残っているガーリックを見つけたイチローは、さらなるガーリックの追加を訴える。“ 遠慮するな、ガンガン入れろ” と、促す。
 “ は~い! ”
 軽く、そして明るく答えたアキは、フライパンの中に、さらに大さじ3 倍分の刻みガーリックを加えた。
 ジュワワ~。
 両目をシバシバさせながらも、アキは菜箸でフライパンの中身を馴染ませる。
 “ よしよし。これでこそ本物のガーリックソーセイジだな”
 イチローも満足げだ。
 と、そんなフライパンの中を眺めていたからか、気が付いたようにイチローが言葉を付け足した。
 “ そういえば、アレも、そろそろ呑みごろか‥‥”
 イチローが「アレ」と呼んだのは、焼酎にガーリックをたっぷりと漬け込んだ「ガーリック酒」のことだった。元気がないと練習も満足にできないからと、練習開始の時期と合わせ仕込んだものだった。
 “ 後で、試してみるか‥‥”
 そう言ったイチローの目の前には、皿に盛られた特製ソーセイジがあった。


 “ いっただきま~す! ”
 そう叫ぶが早いか、四人が四人とも、一斉に椀に盛られた玄米を口に運んだ。もちろん、特製ソーセイジも次々と消えていく。
 “ うまいな~ ”
 “ うまいな~ ”
 “ アキちゃん、料理がうまいよね”
 トモ、ケン、テツヤは、モグモグと口を動かしながらアキの料理を褒めた。
 “ 特に、このソーセイジがいいな”
 イチローも、そう続ける。
 “ そんなことないですよ~ ” と、アキは笑顔で応える。

 “ あれですかね、やっぱり、ガーリックが効いているのがいいんですかね”
 ケンだった。そう言いながら2 本目の特製ソーセイジを口に押し込む。
 “ だろうなぁ。みんなしてパワーが必要だからなぁ”
 イチローが話を進める。
 “ いや~、ソーセイジもイイですけど、この生のカリフラワーもイイですよね。アメリカへ来て、初めて生でカリフラワーを食べたけど、美味いですねぇ‥‥”
 今度はテツヤが言った。
 日本では、カリフラワーは茹でてサラダなどに使われることが多いが、カップシューターたちは5mm ほどの厚さにスライスしたものを生で食べた。塩コショウを振った後にレモンを絞ることもあれば、多めにキューピーマヨネーズを掛けることもあった。
 “ これか。これは美味いな。ワシがFBI のスワットトレイニングに参加したとき、昼時、カリフラワーを齧る隊員がいてな、真似たら美味かったから、それからはこのスタイルだな‥‥”
 イチローだった。
 「FBI のスワットトレイニングに参加‥‥」という件からして、すでに世界観が普通ではないが、特製ソーセイジや生のカリフラワーにむしゃぶりついているケンやテツヤやトモにとっては日常の話らしい。そこには誰も、少しも驚いたふうがない。

 “ そうですね~。本当に、コレうまいな~ ”
 カリフラワーを口に運んだケンが言うと、誰もがウンウンと頷く。
 ただ、異口同音に、美味い、美味しいと彼らは叫ぶが、その食べっぷりを見ていると、本当に味が分かっているのか? 味わっているのか? との疑問が浮かぶ。
 丼ぶりに山と盛られた玄米が、大皿に溢れたソーセイジが、そしてカリフラワーが無造作に消えていく様は、「食を楽しむ」という姿からは遠い。それはまるで、午後からの本格的な練習を前に、身体に力を貯め込むための仕業とさえ思えた。口の中に、肚の中にパワーを押し込む作業と映った。
 
 “ 今から思うと、昔は昼も弱かったですよね。カップラーメンだったし‥‥”
 少し寂しそうな声でテツヤがつぶやいた。
 “ あのころは食事の大切さが分かっていなかったな。それに時間が惜しかったからな”
 イチローが返す。
 食事時間よりも練習時間優先だった時代を思い浮かべる。
 “ ああ、でも、イチローさんが作ってくれたネギサラダは最高でしたよ”
 そう口を挟んだケンは、目の前のカリフラワーの中に「ネギサラダ」を思い浮かべたのか、幸せそうな眼を向けた。
 ケンが「最高だった」と懐かしむネギサラダというのは、通常の、よく見かける親指ほどの太さのネギではなく、九条ネギのような、エンピツほどの太さのネギをぶつ切りにしたものに、タップリのキューピーマヨネーズを掛けたシンプルなものだった。ピリっとしたネギの辛みと、マッタリとしたマヨネーズの甘みが絡み合い、得も言われぬ風味に仕上がっていた。
 “ ああ、あれも美味かったな”
 今度もイチローが応えた。


 思いもよらぬ食事談義が進む中、誰も彼もが二杯目の玄米飯を盛っていた。
 そこでイチローは、トモが日本から持ってきた梅干しに箸を伸ばす。
 その梅干しは梅の名産地として知られる和歌山県で造られた名のある品で、通常、デパートあたりで贈答品として買い求められる逸品だった。イチローが大の梅干し好きと聞きつけ、トモが用意したのだ。
 “ いやぁ。この梅干し、確かに美味いが、ワシらみたいなナラズ者には似合わんな”
 梅干しを口に運んだイチローはそう言った後、「上品すぎる」と付け加えながらも満足した顔を見せた。
 “「ナラズ者」って、なんだかカッコいいですね”
 テツヤが笑いながら言うと、
 “ まあ、ワシらみたいに、玄米喰って、山の中でテッポー撃ってる者は、世間から見ればナラズ者よ。う~ん。ナラズ者はいいな。死ぬまでワシら、ナラズ者でいような! ”
 と、ここでもイチローが応える。

 “ 確かに、シアワセ者ですよねぇ。何がどうなって、こんなにシアワセになったのか‥‥”
 ケンには似合わぬ、少しだけ真剣な口調だ。
 昔はモデルガンで遊んでいて、バカだ、クズだ、落ちこぼれだと蔑すまれていたというのに、気が付けば、大好きなガンと射撃に夢中になれる毎日があり、しかも、それが仕事の一部になっている。
 それはどういった経緯からなのか。
 考えて分かるコトではないが不思議な流れだけに気にもなる。それはテツヤもトモも同じだった。運が良かったのか? たまたま、そういう星の下に生まれたのか?
 “ そうだよなぁ。ワシも昔はアメ横へ通ってモデルガンを買っていたのになぁ。いつの間にか本物のテッポーだからなぁ‥‥”
 イチローさえも同じ意味のことを言い出すと、さらに、
 “ それにしても、昔のアメ横はすごかったな。雨が降るとぬかるんでなぁ。田舎の養鶏場みたいな臭いもしたっけなぁ。本物のテッポーが欲しければ、ガード下の怪しげな暗がりに行けば、いつでも手に入るって感じだったなぁ。ケン、そうだったよなぁ”
 と、自然に、ケンに同意を求めた。
 “ いや~。アメ横に通い出したころには、街も道もきれいでしたよ。立派なビルもいっぱい建っていましたし‥‥”
 ケンが答えると、驚いたふうの口調となったイチローは、
 “ えっ! そうなのか? ケンがアメ横へ行ってたころは、道はぬかっていなかったのか? ワシとケンは、幾つ違うんだ? ”
 “ 十七歳、違いです”
 ケンが即答すると、イチローはさらに驚いた口調となって、
 “ えーっ! じゅうななーっ!! そんなに違うのかー!! ”
 と、返したかと思うと、直ぐに落ち着いた口ぶりを取り戻して続ける。
 “ いつも、何でも知ったふうな、エラソーなことを記事に書いてるから、ワシとは同じ部活の、先輩・後輩くらいだと思ってたよ。 ふ~。あぶない、あぶない”
 そこでみんなして笑い転げる。


 肚もくちくなると直ぐには射撃練習も始められない。少しの休憩も兼ね、ケンとテツヤはディロン社製のローディングマシンで練習用の実包を造り始めた。そのマシンは1時間に1000 発の練習弾を造れる性能を持ち、カップシューターたちは1日おきに1000 発から1500 発の実包を造ることが習わしとなっていた。
 “ あのさ~。こうやって練習弾を造るってだけでも、楽しいよね~ ”
 マシンを操作しながらテツヤはケンに話し掛けた。
 “ うん。これ、おもしろいよな”
 テツヤの作業と並行し、ケンは空薬莢の選別を行いながら答える。
 空薬莢の選別というのは、ビアンキカップの練習中、空薬莢を繰り返し利用し実包を造っていくと、ヒビ、その他の変形があらわれるため、それの発見・確認を行い、不備が見つかったモノを排除する‥‥という作業だった。

 “ でもさ。さっきも話が出たけど。気が付いたら、俺、スゲーことやってるなって、ときどき思うんだよ。なんで俺がケンさんやイチローさんと一緒に射撃練習できて、しかも試合にも出られるんだろう‥‥って、思うんだよ。ヘンだよね”
 何がどうヘンなのかの説明は抜きに、テツヤは、さらに自身の想いを語り始めた。
 テツヤはその辺、気が回る性質ではなかった。

 “ 前にも話したけどさ。以前、イチローさんと一緒にピッツバーグのポリスレンジで射撃した時さ、途中で昼食ってなって、リラックス気分で食べ始めてね‥‥。ほら、あそこって広くて景色もいいし、ピクニック気分だったわけよ。ああ、俺、ガンマニアとして、最高の時を味わっているなぁって。そこで気を良くしてさ、手元のガンを構えて、空撃ちしたんだよ。そしたら、バーン!って弾丸が発射されて‥‥。昼食で、みんなイヤマフ外してたんだよね。ああ、いやさ。イヤマフを外してたとか、そういうレベルじゃないよ。セイフティエリアで、いきなりバーン! だよ。もう、その場で撃ち殺されても文句の言えない失敗したんだよね。俺‥‥”
 いつもは陽気なテツヤだったが、過去の失敗を思い浮かべたせいかどうも元気がない。
 “ でさ。その失敗だけでも充分に出入り禁止だと思うけどさ、ケンさんも知ってのとおり、俺って、何度も何度も失敗してるだろ。それでも、今、ここで射撃ができてるのって、自分でも何だか分からないんだよね”
 テツヤは、何かをケンに相談したいという気持ちからではなく、ただただ、整理しきれないながらも自分の過去と現在とを思い浮かべ、自分なりに自身の生きざまを理解しようと努めているのだった。
 “ う~ん。まあ、テツヤも失敗は多いからなぁ。でもな、それを言い出すと、コッチは、テツヤ以上に震えるような失敗をしでかしてるからなぁ‥‥”
 真顔となったケンは自身の過去を想い浮かべると、そう返答した。
 “ 二十歳になったばかりのころだよ。イチローさんの大事な三脚を足蹴にしたんだよ。あれを想い出すと、本気で死にたくなるな‥‥”
 元気のないテツヤに逆に心配されるほど、ケンの声は小さくなった。よく見ると今にも泣き出しそうだ。
 “ おおっ! あの話だね。あの、「ビアンキカップへの道」でも書かれていた話だね”
 と、失礼なほど嬉しそうに反応したテツヤは、少し元気を取り戻す。
 “ あのさ。ケンさんは大変だと思うけどさ。俺、カップを撃ってて、スゲー嬉しいんだよ。だって、試合が終わった後、ケンさんの「ビアンキカップへの道」を読めるだろ。あの記事の面白さはさ、ただの読者じゃダメだよね。一緒にカップを撃ってるから分かる部分ってあるからさ。今年も楽しみなんだよ‥‥”
 と、ますます元気になったテツヤは実包造りにも熱が入る。
 その辺の単純さもまた、テツヤの性質だった。

 重いのか、それとも他愛がないのか。どちらとも取れる会話を続けながらもケンとテツヤの二人は快調にマシンを動かし続け、1 時間半ほどで2000 発の実包を造り上げた。
 “ どうする。直ぐに練習に行こうか。午後は50 ヤードも撃ちたいし”
 大量の実包をアンモバックに詰めながらケンが言った。
 “ そうだね。でも、もうすぐトモちゃんも戻ってくるだろうから、それまでもう少し練習弾を造っておこうぜ”
 と、テツヤが提案する。
 ケンとテツヤの二人が練習弾を造っている間、先に午後練習に出かけているトモは、そろそろ休憩と自身の練習弾造りのために戻ってくるはずで、それと入れ替えに出かけようという話でまとまった。
 そこで実包造りを再開すると、ほどなくトモは戻ってきた。家に入るなり、
 “ いや~、ダメですね。いくら撃っても「一発病」から抜けられません‥‥”
 そう切り出した。
 トモの言う「一発病」とは、気持ちよく、良いグルーピングで射撃ができているにもかかわらず、なぜか、一発だけ、突発的に外すという症状だった。もちろん、突き詰めていけば、外すのは未熟だからであり射撃力の低さが原因ではあるが、どこでどう外すのかが見えていないため練習のしようが、対策の練りようがないことが問題であった。
 “ おいおい、トモちゃん。一発だけならいいよ。こっちは外しっぱなしだから‥‥”
 苦笑まじりにケンが答えるとテツヤも笑った。
 そこにイチローも戻ってくる。

 ケンとテツヤが射場に向かおうとすると、さすがにこの時間帯では暑すぎるから、もう少し後で一緒に出掛けてはどうかとイチローが誘った。確かに、午後2 時前後の日差しは
容赦がない。
 そこへ、タイミングを見計らったようにアキはウーロン茶を入れると、それぞれに手渡した。
 そのウーロン茶を口に運びながら、唐突にテツヤは話し始めた。
 “ イチローさん。さっき、実包を造りながらケンさんとも話してたんですけど、やっぱり、俺、スゲー運がいいっていうか、何でみんなと一緒にカップに出られるのかって、思うんですよ”
 テツヤの中では順序も筋道も通っているようだが、脈略はデタラメだった。
 そこで、そこからのテツヤの話を要約すると、イチローさんもケンさんも、そしてトモちゃんも雑誌でライターとして活躍しており、そこに一人、部外者の自分が加わっていられるのは望外の幸せ、幸運だと力を込めるのであった。
 すると、それを聞いたトモが、
 “ テツヤさんがそう言うなら、自分こそ、たまたま‥‥”
 と、こちらもまた自身の過去を話し始める。
 フムフム‥‥と、イチローもケンも、トモが語るがままに聞いていたが、そっちの話も要領が悪い。何をどう伝えたいのかが見えてこない。そこでトモの話も簡単にまとめると、昨日・今日、仲間に加えてもらった新参者の自分に、こんなに良くしてもらってどう応えればよいのかが分からない‥‥と、しんみりとした。

 “ まあ、細かいことはどうでもいい。アメリカで好きなテッポーを撃ててるってことは、それだけでハッピーだからな”
 イチローはそう纏めると、少しだけ説明口調で、
 “ 何がどうなって、今の自分の人生があるのかなんて分からんしな。ワシも、まさか、アメリカで好きなテッポーを撃って、それで生活するようになるなんて思ってもいなかったからな。テツヤ、想像できるか? テッポーの写真を撮って、そのテッポーがイイとか悪いとか好きに書いて、それで暮らせてるんだぞ。そんな人生ってあるか? ”
 と、投げかけた。
 イチローの口から「そんな人生ってあるか?」と問われると、テツヤはもちろん、トモにもケンにも答えようがなかった。確かにとんでもない人生とも思えるし、イチローの能力からすれば当然とも考えられる。
 “ 何がどうなって、ワシはこんな人生を歩んだのか、説明なんてできんだろ”
 なるほど、誰にも説明はできない。たまたまかもしれないし、イチローのたゆまぬ努力の結果かもしれない。が、説明はできない。

 “ そうですねぇ‥‥”
 そうテツヤは独り言ちした。
 何かを納得したふうのテツヤだったが、そういえば‥‥と、改めて話を続ける。
 “ イチローさんは、どういった理由でアメリカへ渡ることになったんですか? 決めたんですか? ”
 これまで、イチローに纏わる話は数多く、直接本人から、もしくはイチローを知る人々の口から聞いてきたが、「なぜアメリカへ?」は、テツヤも知らなかった。

 “ あれ? 話していなかったか? ”
 そう答えたイチローは視線を窓の外へと向けると、一瞬、自身の過去を振り返る様子を見せた。
 が、ほどなく、ゆったりとした口調の中にも確固たる意志を感じさせながら、言葉を選び、それでいて、いつもの柔軟さを保ったまま、三人に向かい、話し始めた。
 “ 昔、日本に居たころ、写真を撮っていてな。仕事で写真を撮っていてな‥‥。でも、自分の人生を自分でハンドルできないってことに耐えられなくて‥‥。もう、生きていてもしょうがないなって気がして、死ぬことにしたんだよ。でな、どこで死のうかって、東名高速を駆りながら考えてな‥‥。それなら富士の樹海がよさそうだって‥‥”

 ケン、テツヤ、トモの三人はイチローの言葉を聞き逃すまいと自然と前のめりになる。
 そんな彼らの想いとは関係なく、イチローの話は淡々と、いや「粛々」と続くのであった。
  


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